脱毛master.com 【05/24update】

▼最新情報をCheck!!▼


「土井垣武」||脱毛master.com 【05/24update】

土井垣武 wikipedia|無料辞書

前のページ 1/2 次のページ
鳥取県 米子市
|生年月日 = 1921年7月21日
|没年月日 =
|身長 = 164
|体重 = 64
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = 捕手 一塁手 三塁手 外野手
|プロ入り年度 = 1940年
|ドラフト順位 =
|初出場 = 1940年
|最終出場 = 1957年
|年俸 =
|経歴 =
米子中学校
大阪タイガース
阪神軍
大阪タイガース
(1940 - 1942、1946 - 1949)
毎日オリオンズ (1950 - 1953)
東映フライヤーズ (1954 - 1955)
阪急ブレーブス (1956 - 1958)

▲上へ / ▼下へ

|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 =
阪神タイガース (1963 - 1964)
・:※1963年は二軍
|選出国 =
|選出年 =
|得票率 =
|選出方法 =
-->
土井垣 武(どいがき たけし、後に若松と改姓、1921年7月21日 - 1999年1月25日)は日本の元プロ野球選手鳥取県米子市出身。ポジションは主に捕手。右投げ右打ち。愛称は熱血的な性格から往年のニューヨーク・ヤンキースの名捕手にあやかって「和製ヨギ・ベラ」と呼ばれた。所属球団は、毎日オリオンズ東映フライヤーズ阪急ブレーブス。末弟にパシフィック・リーグ審判を長らく務めた土井垣幸男がいる。

◆来歴・人物
幼い頃から大阪鉄道局米子野球部のマスコット的存在として可愛がられていた。米子中学校(現米子東高校)では下級生の時から主軸を打ち、5年次1939年夏の甲子園で主将としてベスト8に進出(この時主にショートを守っていたのが、のちに南海大阪でプレーする1級後輩の長谷川善三だった)。1940年に大阪に契約金500円で入団。正捕手田中義雄の控えとして一塁や三塁を守った。
戦後1946年に打率.325でベストテン3位に輝く活躍を見せ、「ダイナマイト打線」と呼ばれた大阪の打撃陣の中で、3番別当薫、4番藤村富美男らと共にクリーンアップの一員として5番を打った。特に1949年には自己最高の成績で、打率.328、本塁打16本、打点86をマーク。また当時の阪神投手陣の若林忠志御園生崇男らエース級投手をリードして、屋台骨を支えた。
1949年オフに毎日に移籍。若林、別当、呉昌征本堂保次大館勲らと同調したと言われることがあるが、土井垣の移籍は10年選手制度によるものであり、移籍決定も時系列的に若林らより前である。移籍理由は違わず大阪フロントに対する不信感であったが、移籍は単独で決めたことであり、若林は土井垣の移籍を全く予期していなかったという。移籍した1950年に打率.322でベストテン5位に入る活躍を見せ、日本シリーズでは松竹ロビンスを破って初代日本一に貢献した(この時の監督は米子中の先輩にあたる湯浅禎夫)。その後1954年に東映、1956年に阪急に移籍して、1958年シーズン限りで引退。
引退後、朝日放送(ABC)野球解説者を経て、1963年阪神の二軍バッテリーコーチに就任。1964年には一軍打撃コーチを務めた。その後は若松家に養子縁組し、京都西陣で、西陣織を扱う会社の社長をしていたが、1999年1月25日に肺炎で死去した。

◆年度別打撃成績